丸由製陶 登り窯
丸由製陶 登り窯付近にあるQRコード用。
この登り窯は昭和34年に築窯し、昭和42年頃まで使っていました。
窯焚きには4人が2人ずつで、1日6時間の2交代で、約10日間程かけて焼成していました。
当時は、植木鉢・火鉢などの生活雑器を信楽では主に生産していました。
信楽を代表する海鼠釉の火鉢も盛んに、この窯で丸由製陶の4代目、5代目が生産していました。
昭和40年頃は、薪の窯に代わり燃料に重油を使った窯が信楽内に多く作られ、
我が窯でも重油窯を導入し、登り窯の幕を閉じました。
それよりほぼ半世紀経ち、当時の姿を残しています。
信楽に100ほどあった窯も現在では10基程が残っています。
平成19年11月に経済産業省より「近代化遺産」に認定され、これからは違う使命での活躍を模索中です。
信楽の貴重な文化財とし、
今後の新しい信楽の姿の中、先人からの歴史文化を守り続けていきたいと想っております。
丸由製陶 代表 神崎直樹
この登り窯は昭和34年に築窯し、昭和42年頃まで使っていました。
窯焚きには4人が2人ずつで、1日6時間の2交代で、約10日間程かけて焼成していました。
当時は、植木鉢・火鉢などの生活雑器を信楽では主に生産していました。
信楽を代表する海鼠釉の火鉢も盛んに、この窯で丸由製陶の4代目、5代目が生産していました。
昭和40年頃は、薪の窯に代わり燃料に重油を使った窯が信楽内に多く作られ、
我が窯でも重油窯を導入し、登り窯の幕を閉じました。
それよりほぼ半世紀経ち、当時の姿を残しています。
信楽に100ほどあった窯も現在では10基程が残っています。
平成19年11月に経済産業省より「近代化遺産」に認定され、これからは違う使命での活躍を模索中です。
信楽の貴重な文化財とし、
今後の新しい信楽の姿の中、先人からの歴史文化を守り続けていきたいと想っております。
丸由製陶 代表 神崎直樹
Posted by 散策路のwa at 00:53│Comments(1)
│各窯元情報
この記事へのコメント
しがらきやきの先人の功績においては
計り知れないものがあります。
登り窯は、形として伝え残されている一つでしょう。
残すのであれば一日でも早くの対策が望まれます。
例えば表面を防水樹脂で固めるとか・・・・・。
現在の信楽焼は、民芸と産業の狭間において
日々を迎えているでしょうか。
民芸も一辺倒であれば歴史村・観光目的になってしまいます。
江戸時代の街道観光地・馬籠宿・妻籠宿など
近代代の産業町・近江八幡付近・舞鶴・倉敷など
それもいいかも・・・。
産業となれば商品開発が必要となります。
他の陶磁器産地との背景と現実を明確にして
生産と提案が必要です。
現代の都会生活を前提としての創造が・・・・・。
先人のこころを大切にして頑張って下さい。
計り知れないものがあります。
登り窯は、形として伝え残されている一つでしょう。
残すのであれば一日でも早くの対策が望まれます。
例えば表面を防水樹脂で固めるとか・・・・・。
現在の信楽焼は、民芸と産業の狭間において
日々を迎えているでしょうか。
民芸も一辺倒であれば歴史村・観光目的になってしまいます。
江戸時代の街道観光地・馬籠宿・妻籠宿など
近代代の産業町・近江八幡付近・舞鶴・倉敷など
それもいいかも・・・。
産業となれば商品開発が必要となります。
他の陶磁器産地との背景と現実を明確にして
生産と提案が必要です。
現代の都会生活を前提としての創造が・・・・・。
先人のこころを大切にして頑張って下さい。
Posted by ふじ・愛サン at 2008年04月06日 09:14